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【memo】十字軍について

1.十字軍とは

十字軍(ラテン語: cruciata、英語: crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。


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2.十字軍遠征までの経緯


トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。

ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。

3.概略



《第1回十字軍》

期間:1096年 - 1099年
派遣の理由・目的:セルジューク朝、聖地を占領

概要:
セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。

結果:
・この十字軍には民衆も参加。しかし、多くは戦死した。
また十字軍により、イェルサレムにいたエジプト人・地元住民の多くが虐殺された。そして、本来の目的を達成できたのは実質的に第1回目だけ。

・ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、「奪還した土地は私のものだ」と主張。十字軍の諸侯を呆れさせる。だが、結局アレクシオス1世はしたたかに領土を確保している。意外と策士である。



アレクシオス1世コムネノス
(1048年 - 1118年)

第159代ローマ教皇ウルバヌス2世
(1042年 - 1099年)


セルジューク帝国の最大版図, 1092
http://ja.wikipedia.org/wiki/セルジューク朝



《第2回十字軍》

期間:1147年 - 1148年
理由・目的:イスラム勢力の反撃

しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返し、1144年にザンギーがエデッサ伯国を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世が呼びかけて結成された。
当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の頼みで各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。なんとかパレスチナにたどりついた軍勢も、当時十字軍国家と友好関係にあったダマスカスを攻撃したが失敗し、フランス王らは撤退した。



ローマ教皇エウゲニウス3世(生年不明 - 1153年)


《第3回十字軍 》
期間:1189年 - 1192年
目的:サラディンのイェルサレム占領

1187年にアイユーブ朝はジハード(聖戦)を宣言。アイユーブ朝の始祖でありイスラムの英雄であるサラーフッディーン(サラディン)は同年7月のヒッティーンの戦いで現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりにエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中にはアンティオキア、トリポリ、トルトザ、ティルスの4市とクラック・デ・シュヴァリエなど若干の要塞を除く十字軍国家のすべてがアイユーブ朝の手に落ちた。この状況を受け、教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。

結果:
・フリードリヒ1世は、イェルサレム到着前に病没。イングランド王リチャード1世らはイスラム教徒を虐殺。
・イスラム教徒を虐殺した十字軍に対し、サラディンはキリスト教徒を迫害せず、捕虜も送還。無用な殺戮は一切行われず、ヨーロッパから真の騎士であると絶賛。その後、詩などでも詠われるようになる。






《第4回十字軍》
期間:1202年 - 1204年
理由・目的:アイユーブ朝 エジプトを倒せ

ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向を受けて輸送料の不足分支払のためハンガリーのザラ(現クロアチアのザダル)を攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、この際十字軍側によるコンスタンティノポリス市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡ってはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン (十字軍側)とニケタス・コニアテス(東ローマ側)という2人の優れた歴史家が記録を遺していることでも知られている。


結果:ビザンツ帝国のコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建国。当時、ビザンツでは内紛が起こっており、堅固なはずの城門が開かれてしまった!!これは、ヴェネツィア商人達が、商売敵のビザンツ商人を倒してくれと要請したため。ビザンツ側は、小アジアのニケーアやバルカン半島に亡命政権を作り、1261年に首都奪回を果たすが、昔日の威容は無し。





《第5回十字軍 》
期間:1218年 - 1221年
理由・目的:アイユーブ朝エジプトを倒す

教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世らがエルサレム王国の国王ジャン・ド・ブリエンヌらとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらはイスラムの本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都カイロを落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。1221年には神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった。

結果:失敗




《第6回十字軍》
期間:1228年 - 1229年
理由・目的:アイユーブ朝エジプトからの聖地回復

グレゴリウス9世は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征。当時エジプト・アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルは内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。フリードリヒは、聖墳墓教会はキリスト教徒に返されるがウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、フリードリヒに対する十字軍を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。



《第7回十字軍》
期間:1248年 - 1249年
理由・目的:エジプトが聖地を奪う

アル=カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。これを受け、1248年にフランスのルイ9世(聖王ルイ)が十字軍を起こす。ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征し海港ダミエッタを占領するが、さらに南の首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になった。交渉途中にサーリフは死亡し、サーリフの遺児の政権は軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たに成立したマムルーク朝にルイは莫大な賠償金を払って釈放された。




《第8回十字軍》
期間:1270年
理由・目的:チェニン攻撃

フランスのルイ9世が再度出兵。当時ハフス朝の支配下にあった北アフリカのチュニスを目指すが、途上で死去。




《第9回十字軍》
期間:1271年 - 1272年

第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの元でイスラム側は攻勢を強め、1268年にはアンティオキアを陥落させてアンティオキア公国を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード(エドワード1世)とルイ9世の弟シャルル・ダンジューがアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡し、1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに十字軍国家は全滅した。

ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。

4.その他の十字軍


一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍をさすが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称である。
上記のほかにもさまざまな十字軍が行われた。これらの十字軍を大別すると、
  1.     旧キリスト教圏の回復・奪回
  2.     異端への討伐軍
  3.     教皇に敵対する勢力への軍事行動
  4.     異教徒への布教・征服
の4つに分けられる。

・レコンキスタ
イベリア半島においては、キリスト教国だった西ゴート王国が711年にウマイヤ朝に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。1031年に後ウマイヤ朝が滅亡するとキリスト教勢力の南進がすすみ、このなかで1064年に教皇アレクサンドル2世によってはじめて異教徒との戦いに贖宥が与えられ[6]、以後の十字軍にも取り入れられた。パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇はたびたびイベリア半島に十字軍を宣し、なかでも教皇インノケンティウス3世が1212年にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止とムワッヒド朝に対する一致団結を求めた十字軍は、同年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いに勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して1251年までにグラナダのナスル朝を除くすべてのイベリア半島を手中に収めた。

・北方十字軍
バルト海沿岸には古来ヴェンド人や古プロイセン人、エストニア人、リトアニア人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、1147年にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ[、ヴェンド十字軍が行われた。その約50年後、1193年に教皇クレメンス3世が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初はリヴォニア帯剣騎士団、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進したドイツ騎士団によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の植民が進んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/北方十字軍


・アルビジョアワ十字軍    1209年-1229年
1209年、南フランスで盛んだった異端カタリ派を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。レスター伯シモン・ド・モンフォールに率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王ルイ8世の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、1229年に終戦した。

5.十字軍の影響


・十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけともなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後のルネサンスの時代を準備することにもなった。

・11世紀以降盛んとなっていた地中海交易は、十字軍の輸送や補給、さらに西欧勢力がシリア・パレスチナといった地中海東岸の一角を抑えたことでより一層発展し、主な担い手であるヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国はこの時期に隆盛を迎えた。とくにヴェネツィアは第4回十字軍を利用してザラやコンスタンティノープルを抑え、最盛期を迎えている。

・十字軍の資金調達の必要から教皇や君主が徴税制度を発達させ、西ヨーロッパの封建領主は、衰退した。

・東ローマ帝国は、1261年に復活したものの第4回十字軍によって受けた打撃から立ち直れずに衰退し、1453年の滅亡に至った。

・西欧においては、十字軍は西欧がはじめて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。

・西洋では17世紀以降、戦争を伴わない宗教的な運動をも「十字軍」と呼ぶようになり、以来さらに使われる範囲が拡大し、英米では「正義の味方」と言う意味の単語としてcrusadeと言う語を用いる。

・ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世も、オスマン帝国に対する十字軍を構想している。

・2000年3月12日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は十字軍や異端審問などについて「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」として謝罪した。さらに、2001年には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪した。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換であった。





参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/十字軍http://www.uraken.net/rekishi/reki-westasia21.html

※特に知りたいのは「北方十字軍」だというのが分かった。

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